吉岡 文子プロフィール

 

1956年12月10日生れ
栃木県那須町立黒田原小学校
同      黒田原中学校
栃木県立黒磯高校普通科
1980年弘前大学人文学部文学科卒
同年 (株)西友入社
1984年 退社
2003年 北海道美唄市議会議員に初当選

 

 私は栃木県の那須町で、小さな納豆製造・卸業の両親の元に4人兄弟の末の三女として生まれました。ちいさな町だったので、「なっとうやさんのふみこちゃん」といえば、顔がわかるといったくらいでした。

 

 両親は、朝早くから晩まで良く働く親たちでした。父は仕事のほかに、消防団やPTA役員、保護司などの役職も引き受けていました。母は面倒見が良くて、近所の人たちがいつも寄っていくような家でした。

 

 小学校は一学年3クラス、中学校は一学年4クラスといった中規模の学校で、小学校ではソフトボール、中学ではバスケットボール、時には陸上部にも借り出されたりして、よく動いていました。高校は、電車通学でしたので、部活はやらず、帰宅部でした。高校時代は帰宅後、NHKの人形劇や相撲をよく見ていました。

 

 現役で大学受験に失敗。人生ではじめての経験でした。が、同じ高校の友人がたくさん入校した予備校で比較的楽しい浪人生活を送り、京都の立命館大学と弘前大学に拾ってもらい、なぜか北の弘前を選んで栃木から北上しました。

 

 1976年弘前大学入学。浪人生活を一年送って考えたことは、何でもやってみようということ。一度しかない人生を悔いのないように送らなくてはと思っていました。そんな私に、学内の日本共産党の姿がまぶしく映りました。戦争に命がけで反対したということが、心にずしっと響きました。小学生の時、実家が納豆屋ということでついたアダ名が「ベトこん」。学校図書室で見た「ヒロシマ」の悲惨さを思い出し、日本共産党入党。

 

1980年卒業。(株)西友入社。同時に、愛知県春日井市に研修。
1981年2月北海道函館市「函館西武」に。
1982年6月 吉岡 昇と結婚。
1984年5月(株)西友退社。

 

 ここからの人生は子育てが中心。84年9月長女、86年5月に長男、88年3月に二男、90年3月に二女と4人の子どもに恵まれる。夫の両親、夫の祖母、私たち家族6人合計4世代9人家族。大家族は夫の父が93年5月に死亡で8人家族になりました。

 

 子育て中は、新日本婦人の会美唄支部でリズム小組や、手作り小組などを経験。この頃感動してみていたのがNHKの海外ドラマ「大草原の小さな家」。インガルス一家の物語に夢中になり、キャロライン母さんのような自給自足生活に憧れを持ちました。

 

 子どもたちが学齢になるとPTA役員など引き受けました。幼稚園や小学校、中学校の役員のかけもちもしていました。

 

 96年夫の祖母が軽い脳梗塞になり、その結果、「認知症」を発症しました。彼女の認知症とその介護を語りだしたらもう大変。このことは、別のコーナーにて。いろいろな事情から私が、祖母のキーパーソンとなって介護をすることになりました。現在祖母は美唄市内の老人介護施設に入所中。

 

 97年から美唄市の代替保育士として働き始めました。保育士として働き始めて、さまざまな子育てを見聞きして保育士資格取得を決意しました。独学での資格取得は3年間かかり、2001年11月合格。この資格取得物語も話せば長いものになります。

 

 自分のなかでは、里親になることを考えていましたが、2002年10月、日本共産党美唄市議団の団長5期20年のベテラン議員山本清作氏の後継者として立候補を決意。2003年4月初当選。市議会民生常任委員、青少年育成協議会委員。

 

プリンタ出力用画面 友達に伝える